かさむ医療費と教会への献金
夫のうつ病と私の不妊治療のため、今はそれ以外のことをやるのは厳しい状態です。まず夫が休職中のためうつ病の治療とカウンセリングで月数万飛んでいき、更に私の不妊治療のため、家計は毎月赤字でした。なので、クリスチャンである私は献金を払う余裕がないため、教会に行くことが難しくなっていました。日本のプロテスタント系教会というのは、収入の10分の1を献金することが目安だからです。(※カルト教会ではありません。)
また、「子供はあきらめて」と言った人も教会関係者だったため、余計に行きたくない状態だったので教会から距離を置いていました。不妊治療に関しても、やはりあれこれ言われるので、教会や教会関係のサークル活動に参加したくなかったのです。
牧師からの酷すぎる暴言
暫く教会に行かずにいたところ、牧師から連絡があって、「夫の病気と私の不妊治療の為、行くのが難しい」と告げたところ、牧師から「なんとしても子供が欲しいのか。出産をしたいのか」というメッセージが送られてきました。不妊治療をしている女性は誰でも子供が欲しいから、苦しい治療を受けているんです。しかも一番苦しいのは、苦しい治療を受けても授からないから苦しいのです。
また、不妊治療をしている女性に「なんとしても子供が欲しいのか」ということは、例えば抗ガン剤などでガン治療を受けている患者に「なんとしても生きたいのか」と言うことと同じぐらい心無い言葉だと思うのです。
クリスチャンは不妊治療を受けてはいけないのか
牧師のあまりにも酷い暴言に信頼もすっかり萎え、うんざりましたが、「子供は欲しいです。先生は子供は欲しいと思ったことはなかったのですか?」と3人の子供が居るその牧師に敢えて問いを投げかけました。そう言えば自分に置き換えて想像してもらえるのではないかと期待して。その返事は「神様から一つの命を預かることなので言い知れぬ不安があり、子供を授かるように取り組んでいくことが今で良いのだろうかと祈った」との的外れなものでした。あくまで不妊治療は不自然で、神が自然に授けてくれるのを待つようにということなのでしょうか。42歳の私には今しかないんです。
そして、最初の「なんとしても子供が欲しいのか」という質問も的外れで、「隣の家族は青く見える」の高畑淳子さんのセリフ、同じ立場になってみないとわからないという言葉が思い起こされました。牧師が同じ立場になったら分かるはずですが、経験も少しばかりの想像もできないようでしたので、もう期待しないことにしました。
さようなら教会
毎週礼拝に行き、奉仕も献金もしてきましたが、良い時にはいい関係を保てるけれど、いざとなった時には教会も牧師も味方にもなってくれないし助けてくれないということがわかりました。私は、キリスト教の本質は弱い者や虐げられた者が、神によって救われ癒やされるべき場所だと思っていました。しかし中を覗いてみれば、精神に病を抱えているものの悪口を言い合い、教会の役員が洗礼を受けるべき人間を選んでいました。
もはやそこに私の居場所はなく、なんの救いも恵みもないのです。結果、その事がわかり、これで良かったのだと思っています。そして私は教会と決別する決心をしました。
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